(1)フランス人レセップスによる運河建設着手及び挫折
1513年スペイン人バルボアが、パナマ地峡を横断し、太平洋に到達して以来、多くの人々がこの帯のように細い地峡に運河を造り、東西の大洋を結ぶという夢を抱いた。運河のルートについては必ずしもパナマだけではなく、ニカラグア湖を通じるルート、メキシコのテワンテペク地峡を通るルート、あるいはコロンビアのアトラト川を利用するルート等、数多くのルートが検討の対象となった。そうするうち、1855年米国の民間会社がパナマ地峡横断鉄道を敷設したが、運河に寄せる各国の関心は依然として強いものがあった。
しかし、運河建設工事が実際に着手されたのは、フランスの企業家グループがスエズ運河建設者レセップスに参加を求めて、1881年万国両大洋間パナマ運河会社を設立し、6億1,500万フランの巨費を投じることとなったことに始まる。
その工事は、両洋に流れ込む河を掘割で結ぶ海面レベル方式の設計に基づき、延べ20万人の労働力を動員して進められたが、予想を遥かに超える難工事、疫病等が原因で挫折し、1889年運河会社は破産するに至った。
(2)米国に引き継がれた運河建設事業
米国もかねてより運河建設に大きな関心を示していたが、当初はニカラグア湖ルートをより重視していた。しかし、フランスが失敗したのを機に右事業引き継ぎの考えが有力となり、運河地帯の衛生、風紀、警察、防備等あらゆる面でできるだけ米国の管理権が及ぶような条約をコロンビアとの間に署名したが、右はコロンビア議会の受け入れるところとならなかった。
しかし、コロンビアからの独立を企てるパナマの反乱が勃発し、1903年11月3日パナマ共和国が誕生した。米国は早速新パナマ政府と条約交渉を進め、同年11月18日運河地帯の永久支配権をも認めたヘイ=ビュノオ・ヴァリリャ条約を結び、運河建設は米国により継続されるところとなった。
米国はレセップスが手がけた海面レベル方式を捨て、水門式運河の建設に着手し、徹底的な衛生管理と最新の工事技術を駆使し、3億7,500万ドルの巨費と10年の歳月を費やして、第一次世界大戦勃発の年である1914年にようやくこれを完成した。
(1)パナマ運河建設に携わった唯一の日本人技師 青山士
運河建設に携わった唯一の日本人技師がいた。その名は青山 士(あおやま あきら)。1904年より1911年までの約7年間、パナマ運河建設に携わっている。同人は静岡県の出身で、1878年、禅宗の僧侶の三男として生まれた。1903年当時26歳の同人は東京帝国大学土木工学科卒業時に恩師廣井教授より米国がパナマ運河建設のために技術者を募集していることを聞き、同教授の知人であるコロンビア大学のバア教授(パナマ運河委員会の理事を兼任)に紹介状を書いてもらい、同年8月単身米国に渡航した。シアトル、ニューヨーク滞在の後、翌年6月ようやくパナマに到着した。当初は末端測量員として、熱帯ジャングルの中でマラリアに罹患し命を落としそうになりながらもチャグレス川周辺の測量を続け、その後、大西洋側クリストバル港建設事業に参加し、ガツン閘門の側壁の設計にまで携わっている。同人は、パナマに来た当初は末端測量員(ポール持ち)であったが、短期間の内に昇進を続け、測量技師補、測量技師、設計技師を経て最終的にガツン工区の副技師長となっている。手際よい測量の腕や勤勉さ、有能さからパナマ運河委員会の彼に対する勤務評定は常に”Excellent”であった。
青山氏は、日米関係の悪化を察知し、運河完成を待たず1911年に日本に帰国した(休暇願を出して帰国し、そのまま戻らなかった。)。帰国後、内務省の内務技師として採用され、当時頻繁に起こっていた河川の氾濫を防ぐため、数々の治水工事(荒川放水路開削、鬼怒川改修、信濃川大河津分水改修等)を手掛け、当時日本では珍しかったコンクリート工法を採り入れるなどパナマ運河で学んだ最新の土木技術を十分に発揮した。荒川放水路の岩淵水門工事には主任として携わり、パナマでの経験を生かし基礎地盤を20m掘り下げるなど当時としては画期的な工法を採用しているが、その発想の正しさは、完成後に起こった関東大震災の際、ビクともしなかったことで証明されている。その後、同人は内務技監まで昇りつめている。信濃川大河津分水記念碑には、青山氏の直筆の文字が日本語と万国共通語であるエスペラント語で刻まれており、「万象に天意を覚える者は幸いなり 人類の為 国の為」と刻まれている。
(2)幻と消えた旧日本軍によるパナマ運河爆破計画
第二次世界大戦当時、旧日本軍には極秘のパナマ運河爆破計画なるものが存在した。その計画とは、同盟国であったドイツの敗色が濃厚となり、不要となった米英蘭連合軍大西洋艦隊の太平洋への回航が予想されたため、これを少しでも遅らせるためのいわば時間稼ぎのための運河封鎖計画であった。この目的を達成するため、日本海軍は極秘裏に艦上攻撃機「晴嵐」3機を搭載する「海底空母」伊400号型潜水艦からなる潜水艦隊の建造を進めていたが、時既に遅く、2隻が完成した段階で日本は沖縄決戦を迎えていた。遙かパナマまで攻撃に行く計画は変更を余儀なくされ、同潜水艦隊の攻撃目標は南洋のウルシー諸島に変更された。最後は同諸島沖合まで達した時点で終戦を迎え、伊401号は一度の攻撃もしないまま米国に没収、徹底的な調査を受けた後、爆破され、海の藻屑と消えた。当時、米軍はそのあまりの巨大さ、航続距離の長さ等に驚愕したという。
運河爆破計画を進めるにあたり、旧日本軍は当時運河建設に参加した一人の日本人技師の存在を知り、同氏(上述の青山士)に運河の写真、設計図の拠出を要求したが、同氏は「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない。」と述べたというエピソードがある。
(3)パナマから消えた日本人
中南米には大体どこの国にも日系人がいるが、パナマに限ってはほとんどいない。実は昔は床屋など結構な数の日本人が暮らしていたのであるが、旧日本軍による真珠湾奇襲攻撃を受け、ほぼ全ての日系人が米国のキャンプに移送されたことによる。米国はハワイの次の日本の攻撃目標としてパナマ運河を予想していたため、当時軍事施設の色合い濃かった運河に関する情報を敵国側にもらさぬための迅速な処置であった。
(4)謎の小型潜水艇
2000年、エレタ元外務大臣より当館に対し、パナマ湾の沖合に浮かぶ真珠諸島の中の一つ、サン・テルモ島の海岸に朽ち果てた小型の潜水艇が打ち上げられているのが見つかり、旧日本軍のものではないかと調査依頼があった。
早速、現場に飛んでいくとそれは同島の島影にひっそりと打ち上げられており、絶え間ない波を被って今にも朽ち果てそうな状態であった。全長8m程度、寸胴な外観の潜水艇は腐食が相当進んで側壁には大きな穴が空いており、そこから内部を観察することができた。大人2人が横たわってやっと入る程度の空間以外はバラスト(潜水艦が潜航及び浮上するため水を出し入れする部分)であり、非武装であることが容易に見て取れた。第二次大戦当時、当国のコロンビア国境に近いダリエンには日本人及びドイツ人が住んでいたという記録も残っており、沖合の母船との連絡に使った旧日本軍の特殊潜航艇ではないかとの見方もできるが、今となっては何も書類は残されておらず、ただ旧日本軍の幻の運河爆破計画との何らかの関係があったのではないかというロマンだけが残る。
(1)条約改訂交渉
米国とパナマとの条約では、運河の両側それぞれ5マイルを運河地帯として米国の主権が及ぶこととし、また運河の管理・支配も米国の手に委ねられていたことから、パナマ側では早くから不満の意向が表明され、運河の返還はパナマ人の悲願とまでなっていた。
条約は、1936年及び1955年の二度にわたって改訂されたが、年賦金(それぞれ43万ドル、193万ドルにアップ)その他細目が改められたのみで、米国の支配権を本質的に変えるものではなかった。その後1959年に二回にわたり運河地帯にパナマ国旗を掲げるための暴動が起こり、米国は運河地帯にパナマ国旗の掲揚を認めたが、1964年一米国人が運河地帯内のパナマ国旗を降ろしたことから再度暴動が発生し、両国関係は険悪な状態となった。
右暴動を契機として米国とパナマの間で話し合いが始められた。パナマ国内では1968年に政変があったこと等もあり、さしたる進展もなく推移していたが、1974年2月、米国のキッシンジャー国務長官とパナマのタック外相との間で8項目にわたる基本原則について合意をみるに至った。しかし、これに基づく細目交渉は1976年の米大統領選挙のため結実するに至らなかった。
(2)新条約の発効
1977年1月に就任したカーター米大統領は、パナマ運河問題を対中南米政策の最優先課題として取り上げ、同年9月7日、トリホス・パナマ将軍との間で新条約(「パナマ運河条約」、「パナマ運河の永久中立と運営に関する条約」並びに「パナマ運河の永久中立と運営に関する条約附属議定書」)に署名した。
新条約は、パナマにおいては1977年10月23日、国民投票により一括して批准承認されたが、米国においては、上院の批准承認が予想以上に難航し、1978年3月16日に「中立条約」が、また4月18日に「運河条約」がそれぞれ多くの付帯決議を付した上で批准承認された。
1978年6月16日、米国のカーター大統領はパナマを訪問し、トリホス将軍との間でパナマ運河新条約の事実上の批准書の交換を行った。しかし、新条約を実施するに必要な予算措置についての米下院の審議は難航し、1979年9月27日にようやく成立を見、新条約は1979年10月1日に発効した。
上述のパナマ運河新条約により、米国は自国政府機関であるパナマ運河委員会(PCC:Panama Canal Commission)を通じ、運河の管理、運営、維持を行うこととなった。一方、右条約により、同委員会の業務は1999年12月31日正午をもって終了し、これ以降はパナマ政府が運河に関する全ての責任を負うこととなったため、パナマ政府は1994年12月に憲法改正を行い、2000年以降にパナマ運河を管理運営する機関(パナマ運河庁)に関する章をパナマ共和国憲法に追加した。
これに基づき1996年、パナマ運河庁設置法案が国会に上程され、1997年6月11日、大統領の裁可をもって同法が施行された。
1999年12月14日、米国よりカーター元大統領を招いて運河返還式典がミラフローレス閘門にて厳かに開かれ、31日正午には小雨の降る中、PCC本部正面階段前にてミレーヤ・モスコソ大統領の演説終了後、カウントダウン時計が0秒を指し、運河がパナマに完全に返還され、PCCの全ての業務はパナマ運河庁に引き継がれた。